■自己責任を紐解く■
蓮と連日、スピリチュアルでの自己責任について話しをしている。
自己責任とは何か?
そこに関わるものは?
二人で色々と話しながら、紐解いていくと、こんな結論が一つ出た。
自己責任の裏側には、恐怖が隠れている。
それはなぜか?
そこには間違ってはいけないという思いが見え隠れする。
それはなぜか?
自分に対しての自信の無さからくるものではないだろうか?
では、なぜ自信がないのか?
積み上げてきた経験が活きてないのではないだろうか?
では、なぜ活きないのか?
そこには自分の日々の経験とスピリチュアルの経験が無意識に分け隔てさてれいる部分がありそうだ。
分けて捉えることにより、スピリチュアルが特別視されているのではないだろうか。
そしてスピリチュアルに生きている自分を受け入れていないのではないか、という結論が導かれた。
しかも、それが無意識に。
仮に、スピリチュアルが日常であるとすれば、家庭や仕事、遊びにとすべてに反映される。
すなわち、スピリチュアルが本当に日常に活きてくるということになる。
そうなると、今まで積み重ねてきた経験、例えば、家庭や仕事で起こる出来事、遊びに行く場所や遊び方、
それらの経験すべてがスピリチュアルとして置き換えることが出来るようになる。
言い換えるならば、その経験そのものがスピリチュアルの経験ということになる。
それがスピリチュアルの経験と認識できれば、
今起こっている出来事に対しての対応方法も、今まで経験した何らかのものから置き換えて対応することが出来る可能性が高い。
もし、それが初めての体験ならば、またひとつ経験をプラスできたと喜べばいいし、そう捉えられればうれしくなると思う。
今起こっている出来事に対応していく、または、対応できていた自分に気付けば、それは自信に繋がるし、自信がでてくる。
自信がもてるようになれば、色々なことに対応できるようになり始める。
ここまで話して自己責任について上手く解決できそうな気配があったものの、
しかしこれだけでは、間違ってはいけないという思いに対応できなことに気付いた。
そこには何が潜んでいるのか?
またまた色々なエッセンスが含まれていた。
間違ってはいけないという思いは、俺も過去に持っていた覚えがある。
しかし、それを打破できたのは、間違いを怖がらないと考え方を変換してからだった。
設計という仕事で学んだことを少し話しをすると、
建物を設計するという仕事は、人命第一というのは当たり前であり、安全性が問われる。
ということは、経験の浅い設計者には責任というものが重くのしかかる場合がある。
但し、これはそれに気付いた人間だけであり、昨今世間を賑わせている事件などは論外である。
この責任が重くのしかかるというのが問題になってくる。
責任の大小に関わらず、責任が発生するとはどんなことからなんだろうか。
おそらく自分が何かことを起こす事ときから始まるのではないだろうか。
事を起こすとは、大げさに聞こえるかもしれないが、仕事や家庭、友達との間に起こる普段の会話の中で、
何か疑問を投げかけたり、何らかの提案をするといったような、ごく当たり前のことも含まれる。
例えば、友達から質問を投げかけられたときに、自己責任を回避する人がいる。
A: 「○○って、どう思う?」
B: 「う〜ん、どうかな?Cはどう思う?」
C: 「それは、こう思う。」
B: 「そう、そう!俺もCと一緒。」
というような会話を耳にすることはないだろうか?
Bは自発的な発言を避け、ほんとうは感じていることを話さずに、Cの発言に対して同意することで自分の答えを出す。
要は、一番最初に意見が言うのが怖い、孤独が怖いということにも繋がるのではないだろうか。
ここに起こる図式は、「孤独=敵を作る」または「孤独=仲間から外れる」というような感覚が生まれている可能性が高い。
「間違ってはいけない。」、「正しくないといけない。」ということから、またいくつかのエッセンスが引っ張り出された。
自発的(自主性、積極性)、孤独感、疎外感など。
たったひとつのことから、いつくものエッセンスが引っ張り出される。
ここに書かれたものがすべてとは思わないし、みな同じ出来事が起こっているわけでもない。
ただ、これらはすべてが何らかの形で「恐れ」に繋がっていく。
じゃあ、その「恐れ」を手放すにはどうするのか、
それは、間違ってもいいから自主性を持って、積極的に自分から事を行なうこと。
もし間違えば、きちんと謝罪し、間違ったものに対してどのように対処するのか、
それが自己責任が取れるかどうかということなのではないだろうか。
俺は、設計の仕事で間違ったことを話していたことに気付いたときには、
気付いた時点でお客さんに謝罪し、次の提案をしたり、修正を掛けたりして対処していた。
もちろん問題が大きくなる場合もあった。
でもそれは、対処方法が間違っているときだけ、でもそれも含めて対処していた。
それは、俺個人のときもあれば、営業、工事の人間も手伝ってくれたり、手伝ったりしながら。
だから間違うことに恐れを抱かないように心掛けているし、間違えばそれを間違いと認める素直さを持ちたいとも思っている。
これが俺の経験から言えることであるので、だからこれがすべてではないとも思っている。
人は、それぞれの経験があり、それぞれの経験を積み重ねている。
その経験から導かれるものだけが、恐れに繋がるのではなく、過去のトラウマや感情パターン、過去世に繋がるときもあるだろう。
だからこそ、ひとつのエッセンスに絡まっているものを紐解いていくことは重要ではないだろうか?
そうすることで、自分の中に潜んでいる癒しが必要な部分がクローズアップされてくることもある。
ただ理由もわからずに恐れを解放しようとするのではなく、紐解くことで漠然としていたものが見つけられるのだから。
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