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2006年02月28日

具現化の中で誰もが生きている

夜更け、寝る前に携帯から自分のブログを見に行った。
挙げられている各日記や記事を新しい順から見ていくと、わたしの2月1日の日記が途中からなくなっていた。
文章が前半の最初の方しかない。

0206:2006
Vol.5
Sky And Town See From Red  
photo : dozen
Free sozai↓
G48.jpg


これはいったいどういうこと?
ショックだった。
もう2度と同じ日記なんて書けない。


今ブログを直接触れることができるのは龍だけだ。
龍にメールをして聞くと、まったく覚えがないと言う。
そりゃそうだろう、龍が故意的にそんなことをするわけがない。

途中から消えた日記は、アップしてから数日後に文章が消えている。
その内容は引っ越し後のわたしの近況であり、ネット工事待ちという自体を通し、わたしはゆだねることを通し自己責任を学び、龍もまたわたしがこういう事態になることで、自己責任を引き受けるということを学んでいる・・・という内容だった。

ブログにちゃんと日記がアップされたことを確認したのち、わたしは自分の手元にあったその日記をもう削除してしまっていた。
龍に身に覚えがなく文章が消える・・・、というのはいったいどういうことなんだろう?
この具現化は何を現しているんだろう。
ブログを始めて8ヶ月。
初めての経験だ。

そんなことを考えていた時、ふと思い出した。
わたしの日記は文章と文章の間に写真を入れるようにしていた。
その写真の上に、太字で大きくその日記の日付を入れるようにしていた。

ネットが繋がらない今、自分の日記のアップを龍にゆだねるしかなく、写真までゆだねるのは忙しい龍に手間を取らせて申し訳ないのでやめた。
せめていつの日の日記かわかるように、太字で大きく入れるスタンスだけは継続してもらうようお願いしていた。
でも実際はその願いは実現せず、どこに日付を入れるか分かるようにして書き込んだ部分まで、丸々そのままブログにアップされていた。
それに後日気付いたわたしは、外で一緒にランチをしていた龍に、日付のスタンスを継続してもらうのは取りやめるから、そのことを書いた部分を、アップしている日記から消してほしいとお願いした。

すると龍はその場で消してくれようとし、わたしの携帯からブログ作成の方に入ろうとした。が、わたしの携帯はそこにアクセスできるようにはなっていなかったみたいだ。
それで龍は自分の携帯からアクセスして消し、わたしに消したことを見せてくれた。

ここにも具現化が現れていた。
自分が頼まれて日付を承諾したにも関わらず、実際はせず、しかもそれの修正を手掛けることを自分の携帯ではなく、まずわたしの携帯から行なおうとした。
自分の自己責任を自分を通して(自分の携帯)しようとはせず、わたし(わたしの携帯)を通してしようとした。
龍からすれば、それは蓮のことなんだから・・・と判断したかもしれないが、実際にことにあたる責任を承諾したのは龍自身である。
承諾したなら自己責任だ。
けれど、わたしの携帯はアクセスするようにはなっていなかった。
機種もかなり新しいのに、なぜかできない。
仕方なく、龍は自分の携帯で修正をした。
すると、できた。

わたしはわたしで龍にゆだねたのなら、例えそれを龍が忘れようとミスろうと、しかも故意的ではないのだから、その事実、そうなった流れ・状態をありのまま受け入れなければならない。
自分のすることを人に頼んでおいてゆだねられないのなら、初めからネットカフェに行って自分ですればいいのだ。
自分でできるすべがあるにも関わらず、龍の愛ある行為に甘んじた上、文句を言うのがおかしい。
自分の責任からはずれ、人の責任に移行したんだから、自分の責任を超えてゴチャゴチャ言うのはおかしい。
感謝さえ忘れている。
それなら初めから、自分で責任を取ればいいのだ。
それがゆだねる、ということだと思う。
ありのままを、ありのままで受け入れる。

承諾したなら、それはもうそこで自己責任。
ゆだねたのなら、感謝の気持ちをもってありのままを受け入れる。

これはいろんな事柄に当てはまると思う。
そして人間関係によく起こるネタでもあるかもしれない。
自己責任を履き違えて、人のせいにしたり相手を怒ったり・・・という。


そしてそのとき画面上で見えている他の文章はちゃんとあった。

消えたのは、それら画面から見える文章より後半のものだった。
だから画面には映っていない。
直接、目で見える領域外、目には直接見えていない領域で、そのこと(文章が消える)は起きている。
これも無意識の内の領域で起きていることをよく表現している具現だ。

でも実際、消えた日記自身の作成部分に触れたのはこの時にある。
考えられるのは、この時に消えるような何かが起こったとしか考えられなかった。
龍自身は故意的にそんなことをするわけもなく、無意識の手違いが起きたとしか考えられない。
また無意識の領域だ。

無意識の龍がそうするわけは何だろう・・・、とわたしは考えていた。
日記が消えても、それ自体がたいしたことでなければ、わたしは「あららぁ〜」と感じるだけで済ましてしまう人だ。
けれど一生懸命書いた日記のほとんどが消えたとなれば、そのショックは大きかったのも事実だ。

わたしに置き換えれば、無意識の領域でわたしの男性性がわたしの女性性にショックを与えている。
なんでそんなことをする?
わたしの男性性は、女性性に腹を立てているのか?
それとも男性性が与えるものを女性性は受け取れずにいるのか?
それが男性性はムカつき、そんなことをしたのか?
それはつまり男性性自身が男性性に腹を立てているんじゃないのか?
何を自分に怒っているんだ?
受け入れられず、認められていないと思うからか?
それじゃあ、自分が自分を認めていないことになる。

女性性はじゃあ、なんで男性性をそんな気持ちにさせたんだ?
男性性がそうさせたのか女性性がそうさせたのか、事の始まりさえわかりゃしない。
女性性も何か男性性に対し、怒っているのか?
怒っているから日ごろ受け取れずにいるのか?
それじゃあ、女性性は自分で自分を怒っている。
受け取れないということは、与えることも欠如しているんじゃないのか?

これじゃぁ、お互いさまじゃないか。
お互い怒って、お互い自己受容できてないじゃないか。
相手のせいにしているじゃないか。
統合から遠ざかるだけじゃないか。


ショックの理由は他にもあった。
それは、その日記に書いている「ゆだねる」のテーマが、のちの日記にも関連して登場してくるので、わたしにはその後につづくゆだねるのテーマの序章が消された気持ちだったのだ。

けれど龍がそんなことを知るはずもない。
だけどわたしの男性性なら、女性性がどんなことでショックを受けるか知っているかもしれない。
どちらもわたしなんだから。

知っているわたしの男性性が、無意識の領域から龍の行動を引き寄せた。
ワンネス、この世界は見えようが見えまいが繋がっている。
龍もまた引き寄せられる内の状態にあったからこそ、具現した。
何も引き寄せられる内の状態がなければ、事はまったく起きない。

日記はわたしに起きている日常を綴っているものだけに、すべての日記は実は関連し合っている。
その関連が直接続くときもあれば、前の日記がこんなに日を置いて関連してくるのかぁ、ということも起きる。
すべてが関連し合っていることに気付いてからというもの、わたしは日記自身にも注意を払ってきた。
注意を払うそれ自体が、わたしの創造探求を深めるエッセンスにもなっているからだ。

龍自身は、まったく身に覚えがないのに何でわたしにそんな風に接しられるのか憤慨していた。
龍は顕在領域・目に見える視点で出来事を捉えたので、龍が憤慨するのは最もだ。

だがわたしは、潜在領域・目に見えない視点で捉え、そのまま反応したり話したりするので、互いにズレルことが多々ある。
もしかするとしょっちゅうかもしれない。
これが男性性、女性性の違いにも、さらに顕著に出ているかもしれない。

作成部分にアクセスしていた時の龍がどういう状態にあったか振り返ってみた。
龍が携帯からアクセスしたランチのとき、龍のエゴがすこぶる現れていたその真っ只中だった。
その日は朝から露骨にエゴが顔を見せており、わたしは前日から龍がみせるエゴの状態がさらにどう現れるのか、様子を見ていたところだった。

作成部分に触れていたときの龍の内は、すでに焦りやさまざまなエゴが浮上し続ける最中だった。
愛への変換に移行しだす直前の噴出ピークといおうかなんといおうか。

そういえば確か10月のわたしのBDの時に起きた事柄も、今回の件と関連しているんじゃないだろうか。
わたしは大切に扱われていないと顕在で感じ、実際の意味は、自分で自分を大切に扱えていなかった点に気づかされた。
つまり、わたしの男性性が女性性を大切に扱っていない、と憤慨したのだ。
確かそのときも、そのことにわたしはショックしていた。
今回もだ。
見えることに違いはあっても、結局、内なることは非常によく似ているじゃないか。

確か龍の方は、過去世も関連していた。
女性に裏切られたという過去。
今でも女性が信じられないのだろうか。
どこかで信じられないからこそ、女性つまりわたしに自分を与えることを恐れるのだろうか。
どこかで関係性に恐れを抱いているのだろうか。
ということは、自分を信じられず、自分に恐怖を抱いているということになる。

龍にあることはわたしにもあり、わたしにあることは龍にもある。
見える物事の出来事の違いばかりがあるだけで、結局、本質は同じじゃないのか?
そうわたしは感じた。

もちろんお互い、自分が愛ある状態にいるときは何ひとつ起きない。
どちらかのエネルギーがエゴに傾きだしたとき、あるいは傾いたときに事は起きだす。
恐れが浮上し、恐れにどこかで身をゆだねているんだろう。

今回の具現化のポイントは他にもある。
消えた日記の内容がなんだったか・・・、ということだ。

それは・・・、互いの自己責任について。
自己責任は自己受容、自己信頼に繋がっている・・・という内容だった。



今回、わたしの日記が消えるその具現化が、見えないわたしたちの内を具現化していることは間違いない。
わたしはそう確信していたので、その具現化を見逃したくはなかった。
だから、あいまいにしたくなかった。

わたしたちの日常、この毎日の日々そのものは、実はすべて自分の内を現す具現化そのものの中で生きている。
具現化それじたいの中で、わたしたちは顕在意識を自覚して生活している。

その毎日のどの部分をとってシンボルリーディング(具現化の意味)しても、自分の内が現されていることに気付く。

わたしは何度も実際に試してみたことがある。
丸1日をシンボルリーディングするのだ。
1日のすべて、覚えている限り。
その日を過ごしながら徹底的に同時にリーディングしたこともある。

するとどうだろう!
すべてが自分の内を現し、すべてにメッセージがあり、どこにいても自分がいるその場そのものが内を現していることにわたしは興奮した!

共時性のオンパレードでもある。
メッセージだらけでもある。
必要なメッセージは日に何度も訪れていることも知った。
具現化のリーディングが、スピリットの地図になっていることも知った。

実際に地図がなくても具現化を見れば、スピリットに必要な場所にも行けることを知った。
それがわたしたちがしょっちゅう体験したセルフクリアウォークだ。
具現化を読み取り、ハートに耳を澄ませ、「流れ」に「ゆだねて」前に進む。
このどれを欠いてもバランスを壊してしまい、霊的に指定された目的地には辿りつけない。

毎日の1分1秒を常にリーディングし続けるのは困難。
その中で、どの部分をどれをリーディングするか、特にリーディングする価値が大きいものを見出すのが大切で、リーディングすることで自分を知るエッセンスが存分に得られる。

人は常に答えが溢れるエッセンスの中で、実は誰もが生きている。
誰1人例外なく。
それは神の溢れる愛の中だ。
その中で内にハートに耳を澄ませる。

そういう意味でも、誰1人神から離れている人なんていない。
常にそうやって神というワンネス状態の中で、すでに誰1人例外なく生きている。
誰1人言い逃れできないというのも真実だ。

言い逃れできない。自分に。

すべては自己責任。
愛も自己責任。
自分を幸せにしよう。
心地良く生きる自己責任を取っていこう。

これは真実の愛に至るレッスン。





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posted by dozen at 01:39| 10 Lotus Life | 更新情報をチェックする
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