☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆ I n f o r m a t i o n ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

本当の自分を取り戻していく「自分を愛そう!」愛の拡大支援クリックご協力お願いします^―^v

人気blogランキング  精神世界ランキング  哲学ブログランキング  ブログランキングくつろぐ

2006年03月09日

思考から実践への移行

自己探求の日々の中、愛に変換するためにエゴをよくみることを心掛けている。
それと同時にわたしが最も心掛けるのは、愛をみる姿勢も必ず伴わせること。

もちろん、瞑想やエネルギーワークスキル(セルフヒーリング)をおこなうのも最善に取り組む。

0308:2006
Shifts from thought to practice
photo : dozen/Ren
Free sozai↓
1025-dozen.ren.jpg


わたしはいろんな人のそういう取り組みに触れる機会が日常に多い。
その中には、自己責任をもって他者に関わり、愛をもって他者からの愛に感謝している状態があり、素敵だなと感じる。






ところがそうではない状態もある。
とても残念なことに、他者をサンドバックにしている状態を見かけることがある。

他者からの愛を、他力本願に活用したり、答えを自分に見出すどころか他者に答えを与えてもらおうとしたり、自分が答えを見出せないのを相手の援助するエッセンス不足だと捉えたり、他者の真実を自分が理解できないからといって、批判・判断を投げかけたり。

これらは明らかに自己責任の欠如であり、高慢な姿勢。

他者の真実は他者の真実であり、あらゆる体験を通すからこそ他者の真実に共感共鳴していけるもの。
わたしも実際に、自分の今現在までの体験を通してでしか、霊的真実は理解できない。

そして真実は、頭や思考では、とてもじゃないが真の理解に到達できるものではない!というのが自分の体験を通して得たわたしの真実。
自分の成熟(体験)に合わせて、霊的真実は真の理解ができるようになっていた。
以前、理解できなかった本の内容が理解できるようになってきたと感じるのも、ひとつのいい例だ。

こういうふうに真実に至っていくことを体験してきた。
さらに真実は、実践と体験を通し真実に至るからこそ、真の理解も得ていくことを体験してきた。

こういうふうに真実に至る以外、頭や思考、文字や言葉で真実そのものが理解できるということはないことを知った。
体験していないのに得られる真実があるならば、どういう質のものだろう。

体験しない限り、どの分野、何を対象にしようと、誰を相手にしようと、その姿勢の繰り返しをしつづけることになる。

自分自身の真実以外は、どんな真実であろうと他者の真実だ。
他者の真実を自分も体験していないのであれば、そこで自分自身が体験するまではそれについて真の理解を自分はしていないことを認めざるを得ない。

真の理解をしていない上で、他者の真実にどうのこうの言えない。
どうのこうの言うとすれば、それは自分が抱えている他者への批判・判断・競争・ジェラシー・憶測・恐れでしかない。
それらエネルギーを背後にのせた自分の見解を、他者が経験している真実にわざわざ言いたくなるのは、相手に自分の方を認めさせたい欲求から起こっている。
相手をコントロールしたいという欲求だ。

その欲求は、愛だろうかエゴだろうか。
なぜ、認めさせたいんだろう。
なぜ、認めてもらう必要があるんだろう。

それは、自分自身が他者に、あるいはその人に認めてもらっていない・・・と、自分で自分に判断を下しているか、あるいは自分の方が特別だと潜在的に思っていて、それをアピールしたいという優劣にかられるからだ。
自分で自分を、認めていない、自尊心の欠如・自己受容していないから起こる。
認められることを必要としない人は、わざわざ人に認めてほしいと欲求することに繋がる行為は取らない。
ありのままの他者の真実を認め受け入れるだろう。

謙虚に他者の真実を、他者の真実としてありのまま認め、その真実が理解できないから理解できるように求める(早急に答だけを実は求めようとしている)のではなく、批判や判断を投げかけるのではなく、まだ自分が体験していない真実を、すでに他者が体験してくれていることを認め、エッセンスとして自分にチョイスしていくことがわたしは大切だと感じている。

それが霊的真実の、真の理解への早道。
この早道を、わたしはやってきた。
思考や理論での理解は、堂々巡り。
真の真実には至らない。

理解できない霊的真実は、自分が理解できるほどの体験が不足しているということだと、わたしは思い知らされてきた。
いくら求めても、解るわけがない。
頭や思考で理解しようとしても、真のその真実に至るわけがないし、自分のものにはならない。
体験がないのだから。
映画や本をみるようなものだ。

大切なのは、素直に体験不足の自分を認めること。
そう、未熟さを認める勇気を持ち、自分より霊的成熟さをもつ人がいたら素直に認めること。
認められないのは、高慢だからだ。
優劣をもち、それに不随する特別視を抱いているからだ。
だから高慢にもなる。
成熟さをもつ人も、その成熟に至るまでさまざまなプロセスを体験してきている事実が在ることを見落としている。

誰かが誰かより特別なのではなく、みんな自己の成熟に自己責任を取る宇宙法則の上で生きているのであり、成熟に至るためには誰もが全員、自分のためにそのプロセスを歩む。
それがワンネスとなって反映する。
どの創造物(人も含めどんな生命体も)も、その創造物しかもたない独特の創造財産が与えられている。
例えば天使は天使の、人は人の。

互いに違う独特の創造財産をギフトされ、創造に際して根源が直結に創造しようが、天使が創造しようが、すべての源は根源。
その創造性の多様性を認めるのも、認めないのも、自由意志の真の意味をまっとうするのも履き違えるのも、マインドを創りだし自らそれに縛られ制限されるのも、あらゆることはすべて自己責任。
真の自由意志とは、根源や神々、女神や高次、天使たちやデヴァ(自然)と調和し生きることであり、自我(エゴ)の欲求を満たすための自由意志ではない。

これは大天使や天使たち、あらゆる生命体、そして人間も誤用し、宇宙戦争とまでなった。
元々、地球は宇宙のハートチャクラ、4次元であったにも関わらず、宇宙や高次の存在たちにとって癒しの星だったにも関わらず3次元に至ったその始まりは、自由意志の誤用にある。
根源や神々、女神や高次、天使たちやデヴァ(自然)と調和し生きる自由意志ではない、自我の自由意志選択。
自ら根源から離れ、神の本来の愛ある調和のワンネスに変化を加えた。
地球のシフトは修復でもあり、修復に、よりフォーカスするための、地球外生命体などの地球(人類)への利己的悪用活用から防ぐための不可視に入るためでもある。

そして人類もあらゆる生命体も、高次すら、すべて自己責任の真っ只中に生きている。
誤用したなら誤用したなりの世界や環境を自ら創りだすことになり、その自己責任の上に生きている。

霊的真実を理解できないから理解させてよ、という他力本願は捨てること。
他者(もちろん高次や高次生命体も含)の霊的真実を自分も体験し生きたいならば、その方法、道、実践することに取り組む方がよほど早道で、自分への愛だ。

他者の真実に体験不足のまま見解を述べても、述べたところですでにその真実への的をはずしてしまっている。
なぜならその真実に至っていないのに、的を得た見解を述べられるはずはないのだから。
同じ霊的真実に至っていたなら、共感共鳴、あるいはさらにお互いを向上させる霊的真実を分かち合うことを述べたくなるだろう。
それは違う・・・に類する見解や相手に疑惑を投げかけることには、決してならない。
他者のありのままを批判するかのようなことを、わざわざ述べたいとも思わないだろう。

思考や理論から脱しない限り、いつまでたっても思考や理論の世界にいるだけ。
霊的真実は、思考ではなく感覚で捉える。
つまり感じるものだ。
思考で捉えようとすると、言葉や書き方につまづき、理解させてくれという欲求に加担する。
感じることは、それらを超え、そこで言わんとされることを感じ取ることができるようになり、背後にある深さにまで感覚を及ぼすことができる。

見解を投げかけるのではなく、その他者の真実からどんな愛や方法が見出せたか、自分はどうそれに共鳴しエッセンスとして実際に活かすことにしたかなどを相手に伝えることの方が、自分にとっても愛だと思う。

わざわざ他者の霊的真実(もちろん高次や高次生命体も含)、物書きの個性に、あなたの言葉・文字で傷ついたのよ、とか、混乱するわ、とか投げかけるのは、実は自分がすでに傷つき混乱している状態を抱えているのだ。
そうでなければ、他者が何をどのように自分の真実を述べようが、傷つくことも混乱することもない。

霊的真実で言われていることは、唯一自分を傷つけたりできるのは自分でしかないと言われている。
自分以外に、誰も自分を傷つけることはできないと。

霊的真実というものは、現実に探求を実践していけば、その体験を続けていけば、必ず何かしらの真実へと近づくし、真実と真実がリンクし合い、さらに真実を見出す体験をしていくことになる。
そのことをわたしは体験してきたし、今も体験し続けている。

他者に答えを求めるのではなく、自分から答えを見出すための方法に取り組み、方法を探し、それを日常で実際にやる!
これほど真実に近道なことはない!

これが愛にフォーカスしている、愛を選択しているということだと、わたしは感じている。

他者の真実に、自分の見解(判断や批判など)を投げかけるより、わたしは実践のためのチョイス、他者の真実の中に見出せる愛や方法や道を見出すことにフォーカスしてきた。

出版物やPCの中には、あらゆる人(聖人やヨギ、高次の存在も含)たちの真実があるが、それら自己真実を他者に提供する人たちに、理解できないことを理解できるように理解させるように求めたり、答えを求め、自分の見解(判断や批判など)を投げかけるのは、頭や思考で満足したい欲求を持っているなによりの証拠。
その欲求は尽きることがない。
相手を変え、真実を変えては欲求し続ける。

わたしはいろんなそれらさまざまな霊的真実を、真に理解したいし、自分も霊的真実を生きたいし、スピリチュアルに進化し続け、愛に触れ続けていくことを実際に体験し生きたいからこそ、他者に答えを求めるのではなく、自分から答えを見出すためのエッセンスとして他者の真実から学び、取り組み、方法を探し、道を見出し、それらを日常で実際に取り組んできた。
今も取り組み続けている。

おびただしい数のスピリチュアルな本やPC内ブログなど、書く人の数だけ内容にも書き方にも個性がある。
例えば、シュタイナー!和尚!バシャ―ル!あなたの言うこと書くことわからない!と言っていても仕方がない。
わからないのは、自分の体験不足だ。
わかりやすく書いてくれ、話してくれ!と言ったところで、それは自分の体験不足を棚に上げ、理解できないから答えを早急に得たいから求めているだけだ。
自分が理解できない場合もあれば他の人にとってはわかる場合もある。
その逆もある。

時がすぎれば、信じられないぐらい理解できるかもしれない。
本1冊、ブログひとつ、すべてそうだ。
自分が理解できない霊的真実や他者の体験を、理解できないことをその人のせいにしてはいけない。
人の個性や霊的真実を、自分が理解できないからと言って、自分を基本に相手に欲求を突きつけるほどエゴなことはない。
自分にも個性や考え、見解、真実、体験、書き方があるように、人にも同じようにあることを認めなければいけない。

NASAの専門分野の科学の極みの「真実そのもの」を、誰にでもどんな人にもわかりやすいように文章に書くのは困難だ。
極めれば極まるほど専門・分野色が濃くなる。
その真実はその真実でしかない。
例えば幼稚園生が大学院の科学の真実をわかるようにしろ!と言うのは無茶もいいところ。
その真実を真に理解するには、自分もその段階プロセスを歩み体験するしかない!
だいたい文章で真実をわかろうと欲求することじたいが、すでにナンセンスだ。
ジェットコースターに乗ったこともないのに、その説明や映像でその実際に得る体感までも理解させろというのは、エゴにもほどがある。
実際に乗らなければ、真の理解はない。

霊的真実はその真実に近づけば近づくほど、難解に感じた文章が自分ごとのように感じられていくようになる。
しかも難解に思えた文章の背後にある真実にさえ、愛にさえ、気づくことができるようになってくる。
エッセンス程度の誰にでもわかる文章が、とても退屈に感じ出すかもしれない。
しかし自分が成熟したからこそ、エッセンス程度がシンプルに感じられ、その背後にある真実に触れることができるようになる。
成熟、成長には必ずそこに至るまでのプロセスが必要であり、そのプロセスを経験せず飛び越えることはできない。

それらさまざまな自分の霊的状態にあわせて、各々ふさわしい人や本やブログ、情報は必ずある。
それを理解できることからどんどん現実にチョイスしていけばいい。
現実にそれらに実際に取り組んでさえいれば、必ず次へ次へと導かれ成熟しつづけていく。
理解できなかったことがどんどん理解できていく。
理解できないことを理解するには、必ず体験・プロセスが必要。

これら状態にふさわしい数だけ、人も本も情報もある。
Aを扱っている人にBを求めるのも、逆にAしか理解できないのに、Bをわかるように自分は体験せず他者にわかるようにしてくれと言うのも、他力本願、依存、たちの悪い甘え、エゴのなにものでもない。
こういう自分がいるなら、それを認める素直さをもたない限り、ずっとこういう生き方をすることになり真の真実・理解には到達していけない。

思考や理論、言葉や文字、映像だけでは、ましてや自分の実践・体験抜きでは、決して真実の真の理解の到達は在り得ない。

答えや霊的真実の理解を、他力本願で求めてはいけない。
他力本願には、依存やコントロール、都合よさ、利己的他者活用が必ず関係してくる。
他力本願である限り、いつまでたっても何の真実にも至れず、頭や思考でしかないその飽くことのない満たされない欲求を満足させるために、つまりはたちの悪いエゴを人に投げかけ探し続けることになる。

それは自己受容・自己責任の欠如、依存でしかない。
責任転換しつづけ、違和感や疑問や見解の違い、理解できないことやあげくには傷ついたとまで人に言い続けていく。
他者を必ず巻き込む。
これらすべていい悪い、正しい間違っている、認めない認めて欲しいなどの堂々巡りだ。
本当に堂々巡り!

自己受容・自己責任の欠如、依存に慣れて、それが習慣で当たり前で生き方そのものになっている人にとって、自分より自己受容・自己責任ができている人の姿勢や生きかたに触れると、脅威に感じる。

例えば甘やかされ他力本願・依存で生きている現状が当たり前の人にとって、自分のことは自分でやるのよ、と言われただけでも脅威だろう。
急に冷たく冷淡に扱われたと感じるはずだ。

愛がないんだわ、とか、高慢よね、とか、偉そうに、とか、ちょっと自分ができると思って、とか、逆にどうせわたしなんか・・・ともなるかもしれない。とにかく批判が頭をもたげる。
そしてその感情を相手に伝える。
素直に感じたことを伝えたとでも思っているのだろうか。
さもあなたが悪いのよという感情を背後にして。
あと多く観られるのが見解の違いを訴える。
考え方、求めること、価値があなたとわたしでは違うみたいね、違っているようだわ、違ってきたみたいね、と。

いったいなぜそうなるのか。
コントロール。
今までの自分の在り方、つまり、自己受容・自己責任の欠如、依存を保ちたいのだ。
それが当たり前で、それでバランスを取っていたのに脅かされて、本人は不快なのだ。

先ほどの、考え方、求めること、価値があなたとわたしでは違うみたいね、違っているようだわ、違ってきたみたいね、とわざと相手を突き放すのは恐れから出る。
これは実はこういうことを言っている。
今までの自己受容・自己責任の欠如、依存のわたしをあなたが、脅かしたみたいね、脅かしているようだわ、脅かしてきたみたいね、となれたバランスが崩れたのに憤りさえ込めて訴えているのだ。

だからさらに、自分を認めさせたい。
今までのように、かまわれたい過保護にされたい。
そうされることで自分を認めてもらっている、認めさせていると感じ、それが本人にとっての自己受容となってしまっているのだ。

自分の状況・状態の責任は、あなたにあるのよ、わたしは正しい・・・ということを、本当は訴えたいのだ。

不思議となぜか、こういう傾向の人たちは非常に似通ったこういうこれらの反応に出る。

もちろん自分のことは還りみてはいない。
還りみれているなら、こういう反応や言動に出たりはしない。
相手が自分にしたこと自分の感じたこと、それだけが判断の基準になり批判する。
視野が狭すぎる。霊的視野があまりに狭い。
これもまた、これほどたちの悪いエゴはない。

自己探求、自分の旅は、誰でも例外なく自分でしか進めない。
自己責任での自己探求と、責任転換・他力本願・依存での自己探求は、あまりにも質が違いすぎる。
愛の自己探求と、エゴの自己探求という違いがはっきり出てくる。
実践 と 思考の違い。
責任転換での自己探求も、自分の実践はなく自分の体験もなく自分で責任を取る学びも実際にはない。

責任転換での自己探求をしていればするほど、波が激しく、悪環境・悪関係に常に悩まされることが多い。
自己責任の経験が実際には浅いので、簡単に右往左往しパニックになり、自分のエゴに呑まれやすい。
愛変換にも時間はかかり、自己責任・自己受容できていないから何度でも同じパターンを繰り返す。
他者を巻き込むことも非常に多い。
人や物事に対する価値も、簡単に上がったり下がったりする。
これらは思考型やプライドの非常に高い人が多い。

思考だから巧みさに非常に長けているし、理論合戦好きで、思考を用いた闘争・競争にバイタリティがある。
理攻め、批判攻め、違和感攻めに出る。



霊的真実・自己実現を実際に味わい、それを生き、愛に触れ成熟し進化・変容し続けていくには・・・実践しかない!

実践さえ取り入れれば、いくらでも変容が起きる。
どんな人でも!
どんな状態にあったとしても!
思考型も責任転換での自己探求も、必ずくつがえしていける。

古代、レムリア、アトランティスなどすこぶる素晴らしい科学や霊的状態があってもなお滅び分裂が起きたのは、
思考。高慢さ。自由意志の誤用。創造の違いを認めない。優劣を下す。ジェラシー。コントロール。マインド。が特に重きとしてあげられる。



のスピリチュアル活動=Ripe Of Source/dozenの支援クリックのご協力お願いします^−^
   人気blogランキング   精神世界ランキング  にほんブログ・ 哲学ブログ
 



posted by dozen at 11:45| 11 Lotus Life | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。