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2006年07月31日

草魚の生態知らないけどとにかく草を食べてくれるんだってぇ!入れちゃえー!…驚!!

今日は龍のBD。
午後からも夜からも特別に出かける時間もなく、特別に食事をしたい、という要望もなかった。

0730:2006
Love and an ego are hair's breadths.
photo : dozen/Ren
Free sozai↓
291b.ren.jpg


「何が欲しい?」
と聞くと、
「マウンテンバイク!!」
と返ってきた。


数万もする。
さすがに買えない…。

6月のdozenのお給料も出なかったし。
(dozenの経済や支援金はすべて龍が管理しているのでわたしはいっさい把握していない。)
龍に聞いたら、支出(交通費などかかった経費)が多くて無い…、と言われた。笑

「BDとクリスマスとホワイトデイ併せちゃダメかな?」
と聞いてみたが返事なし…。
お気に召さないのか、そこまでしてまで欲しいわけじゃないのか。

他に欲しいものはないと言う。
しいて言うなら服らしい。
結局、物は決まらず…。
わたしも龍からのホワイトデイもまだ貰ってないまま。
決まらないのだ。
結局、物欲がお互いさしてないのだ。笑^^;

ので、何がいいかと考え、
「じゃあ、早朝の蓮を見にいかない?」
と、声をかけたら
「それいい!行きたい!」
と言ってくれたので、かなりごぶさたぶりに早朝から動き出すことにした。

5時すぎには家を出て、大覚寺までサイクリング。

去年は春から秋までずっと早朝からのライフスタイルだった。
龍は仕事を辞めたので、今年はなおさらしっかり早朝ライフかと思いきや、予期せぬ昼スタート生活。笑

龍が起きられない。
龍曰く、寝れない。
変異なのか、単なる習慣になってしまっているのか。
とにかくすっかり夜型になってしまっている^^;
わたしは龍より先にスタートしているものの、さすがに早朝とは縁遠くなってしまっていた。

ゆえにごぶさたの早朝動きの気持ちよさったらなかった。
朝の空気…、じゃなく、この早朝の空気がたまらない快感なのだ。

住宅街を抜け嵐山に向かい走り出すと、すぐに周りの環境が変わる。
どこか違う土地を訪れたかのように変化する。
どこの田舎に遊びに来たの?って感じで。

わたしの大好きな抜け道のひとつの四つ角に、昔のような八百屋さんがある。
果物も並べられ開けっぴろげのその店構えが、田舎を感じさせ何とも言えないレトロな空気を醸し出している。
その反対側の角、と言うよりまぁまぁ道の真ん中よりに大好きな大きな木(樹齢500年の神木)が1本、堂々と立っている。
立っている場所も場所なだけに目がいくのだが、この個性的な木や八百屋が、この辺いったいにレトロな味を創り出し、その八百屋と木の間の坂道を上がっていくと、苔寺と鈴虫寺(幸福地蔵)がある。


292b.ren,jpg.jpg


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苔寺、鈴虫寺を横目に、松尾大社を抜け、嵐山。
どれも観光には有名所。

そんな場所のごく近くに住んでいることが、今さらながら嬉しいもんだなとなぜか感じていた。
有名所と言っても嵐山以外は、どれも閑静な自然溢れる住宅地区、いや、山のすぐそばの中に存在し、ごく近所に数える必要もないぐらいの数しか茶店(ちゃみせ)はない。

嵐山もわたしは大好きだ。
観光地らしい店舗が密集している場所はごくわずかで、あとは自然が溢れている。
点在する有名所のお寺やその近辺も、常に四季を漂わせ、軽いサイクリングや散歩にはもってこいの場所だ。

嵐山の渡月橋を渡り、天竜寺(ここにも蓮がありわたしたちにとって思い出深い場所。龍もある。)を横目に、さらにさらに奥に進んでいく。

京の有名所のお豆腐屋さんに近づく。(こだわりのお豆腐ですごくおいしい。)
さすがにまだ店開きしているわけもなく、帰りに期待する。
すでに準備中という札が挙げられ、中ではせっせとおじさまたちが動いていた。

やがて大覚寺に辿りつく。

「でさ、なんで天竜寺じゃなく大覚寺なわけ?」

わたしたちにとって初めての大覚寺。
なのでとってもワクワクしていたが、今日のBDにふさわしい場所であり蓮を見るのは、やはりわたしは天竜寺じゃないかと感じていた。

天竜寺に具現化されている龍と蓮の関係が、見事にわたしたちを具現化しているからだ。
さらに男性女性、父母原理が。

大覚寺はつい最近、何かの新聞で蓮が咲き始めた…と案内があったらしく、そこにちょうどわたしからの提案があったのと、行ったことがなかったのとで、行ってみたいと思ったそうだ。

その新聞にあった情報を龍がさらに教えてくれた。

元々、大覚寺には蓮が咲いていたのだが、あまりに水草が増えすぎその処理をもっと効率良くできないかと考えていたところ、草魚を増やすことにしたらしい。
その草魚は中国からのものだそうで、池に放したところ思いがけず極端に増えすぎてしまい、水草をきれいに食べるどころか、蓮の葉までを食い尽くす勢いになってしまった。
他国からのその魚は生態が知られておらず、捕まえるのも大変だったという。
例えば、なになにの魚ならミミズをえさに…、とかなるわけだが、なにぶんこの魚は草を食べるわけで、どう釣上げ捕まえたらいいかわからなかったそうだ。
結果、池を閉じる…、池の機能を終わらせなければどうにもならなくなってしまった。

龍はこう言った。
つまり自分たちを楽にするために取った行為が、結局、池の中の自然の生態を壊してしまい、大切な蓮さえ奪ってしまった
長い年月をかけ、ようやく再びまた蓮が咲くようになり増え始めたところだそうだ。

自我の快楽のために生態を壊す
これは大覚寺だけの話じゃないよね…、と龍がさらにブラックバスのフィッシングなどの話しもしていた。

自我の楽さで生態を壊す…。
それって簡易伝授で次から次にヒーラーを生み出す仕組みそのものだとわたしは感じていた。
実践を通し体験から得る真実や自己探求をおろそかにしていても、誰でもすぐにヒーラーになれて名乗れてしまう楽(簡易)さ
すぐに仕事にすることもできる。
それら伝授を媒体に、次から次へとさまざまなエネルギー関与障害を生み出し、本来の生態を壊していく
つまり結局、自分自身を脅かしていく

ディクシャを伝えてくれたカァク(わたしのスピリット)が言っていた。
何も起こらずに(他者や生命体のエネルギー関与)済んだらラッキーだと思ってたください…と。

エネルギーが肉眼で見れないからといって、起こっている実情は、まさに大覚寺の草魚と同じだ。

自己の霊的成熟によって源と直結し、スピリットの融合を果たし、記憶の蘇りやアセンション変容を達していけば、誰でもディクシャやダルシャンのイニシエはできるようになる
これが自己創造の域にあるものだ。
それが成熟の途上にある自然の流れだ。

その自然の流れ、成熟のプロセスを無視し飛び越え、自ら行なえていくようになるイニシエの自然な生態を無視している伝授のしくみ

結果、当然、自分の霊性を壊していく
自らの力を信頼せず、甘い露に飛びつき、エネルギー関与を受け、自らのエネルギー生態を壊していく

成熟もままならぬうち、果たさぬうちに行なえてしまうという伝授は、自らの今現時点での自分のエネルギーを活用しているしかない
するとさらに自分のエネルギーは衰退していきやがて壊れていく。
簡単に他者や生命体の関与は受けやすくなる

元々、人は創造されているわけで多次元なのだから、そのようにすでに光は繋がっているし光でもある。
ゆえに、その光を活用できるわけで、霊的な生きものなのだから霊的な事柄(直感やチャネル、コンタクトなど)が起きても何ら不思議ではない。

が、しかし今、ここ地球で肉体をもっている現時点での自分の霊的成熟においては、千差万別であり、その霊的成熟の質は人それぞれまったく違う
輪廻の中に生きている者もいれば、輪廻を脱している者、その途上をすでに歩みだしている者など、さまざまだ。
現実、多くの者がまだ輪廻内にいる。

自ら成熟する途上には、伝授されずとも自分でイニシエを行なえるようになれるにも関わらず、成熟していくことに委ねず、そのプロセスを歩まず飛び越え
しかもどこまでの成熟に至っているかまだ未熟な成熟者から伝授を受け、自分も伝授ができるようになるという…、そういう仕組みじたいがすでに霊的自然な成り立ちを壊した上での仕組みだと、1人でも早く気がついてほしい。

例えば成熟していくうちに自分の光の経路や器が、大きなビルディングほどのパイプ(経路)に育っているとしよう。
そこにストローほどのパイプ(経路)の成熟さである者も、伝授されたからといって同じような質の媒体になれるわけがないし、同じような質の伝授ができるわけもない。

未熟な質のものを自分に伝授され、それをまた伝授していくさまのエネルギーの質はいったいどういうものなのだろう。
チャクラにもみな生きている限りはゴミが貯まる。
そのゴミ掃除をしていない者、する技術すらもっていない者も、伝授から伝授の輪の中にはいる
まるで輪廻の輪のようだ。

水に例えてみるのもいい。
人から人へ流されている間に、どんどん水は濁ってくる。
誰かろ過する人にあたって、少々そのスキルでろ過されても、流れ回っていく間にまた濁るだろう。
そういう水をどんどん流しあいっこしているも同じだ。

そんなことを続けていけば、いずれ自分が霊的にも衰退していってしまうだろう。
自然に逆らえば、そうなる
それも自然だ。

やめるには、勇気がいるだろう
お金が関わっているからだ。
経済をたくさん得ている者、自分の名(名声)が知れている者、これらで自己を確立している者ほど、やめるには勇気がいるだろう。
やめるには自我、自分のエゴ欲を手放さなければならない
それこそ、純粋な愛が問われてしまうことになるのだから。
これも宗教でもよく観られるありさまだ。

草魚で言えば
草魚(伝授)の実体(質)も知らず、とにかく草を食べて(ヒーリングして、あるいは愛や光の力を溢れさせて)くれるのだろうからいいのだろうと池(肉的・精神的・霊的)に草魚を投じ、結局、池の生態(愛ある霊的プロセス・霊的肉的生き様・人生)を衰退させてしまった。
肝心の蓮(無限なる愛)の活性(霊的進化・変容)からは離れてしまった。
…ということだ。

このような闇の動きは、大いなる古代から行なわれている
闇は闇を明からさまにはしない
必ず甘い露にある
それを愛にも感じ、光にも感じる者がいる。
真実を知らないがゆえ。

そして霊的疫病ははびこり、汚染されていく
霊的な自然破壊が起こり、衰退していく

そのように衰退してきた霊的歴史の情報が、今ではたくさん明らかにされるようになったにも関わらず、相変わらず伝授が起こっている。

常に誰か甘い露に捉われた者が最初にこのようなことを起こす。
いったいどこと繋がり、事を起こそうとしたのか。
未熟な者は、惹かれる。
愛を見たように、光を見つけたように感じる。
奇跡さえ起こす。

やさしい人という本で伺える真実の原理が、こういうことにも起こっている。

つまり、動機が不純であろうが純であろうが、エゴであろうが愛であろうが、外から見える行為は同じようにどちらも美しく映る…、ということだ。
同じように奇跡さえ起こす、ということだ。
その背後の意図、目的の質の違いは別として。

愛が成熟しても声は聞こえる。
エゴが成熟しても声は聞こえる。
ただ、声の持ち主、届け主の愛の成熟さが違う
声をチョイスした自分の人生の行き先も違ってくる

霊的マスターも声を聞く。
精神病患者も声を聞く。
これも同じだ。

成熟がままならぬうちに真実を知らず事を起こしたのかもしれないが、もしその動機がエゴでないならそのまま成熟への歩みはさらに進化し、必ずその行なってしまった事柄が、霊的愛にふさわしくないと気づくはずだろう。

事が起き続き、当事者が事をそのまま続けたというのであれば、それはやはり自我から派生して起こした活動としか言いようがない
その真実は、さらに成熟を果たした者から観る真実で言えばエゴ、我欲でしかなくなる
つまり事を起こし、続けていき続けたという事実に言い訳は通用しない

すでに自分の中に愛も光も在るにも関わらず、成熟への途上を歩めば自らイニシエを行なえるようになるにも関わらず、甘い露に誘われていく。
未熟であるがゆえ、それが正しいことでさえあると感じてしまう

こういう事を起こす者の背後には、必ずそれを助長する存在がおり、それを引き寄せたのは当事者だ。

こうして古く遠い昔から、闇の法則は動いている。
形を変え品を変え…、しかし背後にある法則、やり方の仕組みは常に一貫性が在る
自然な愛ある霊的生態を壊していくことや、そこで発生し浮上するあらゆるエゴマインドを甘い露としてむさぼる生きものたちが、この地上にも宇宙にも存在し、それが彼らの言わば、食物であり、生きる糧であり、生きるための滋養物なのだ

この真実に、1人でも早く目覚めてほしい。


つづく・・・





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posted by dozen at 06:33| 16 Lotus Life | 更新情報をチェックする
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