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2006年09月06日

ジェラシー(嫉妬、ねたみ、特別意識、比較、怒り、傲慢、コントロール)

ジェラシーというエゴ。
ジェラシー自身に関しては人はなかなか気づきにくいもの。
ジェラシーを実は土壌にする、さまざまなエゴが展開し、多くの人はその表層的エゴが原因だと思い込む。

[0906:2005]
0906:2006
Jealousy.
photo : dozen/Ren
Free sozai↓
354b.ren.jpg

dozenに触れる人たちやスピリット仲間たちの中から今、ジェラシーというエゴが浮上している。
今に始まったわけでもないが。
 

今、自分がジェラシーを抱えていると素直にはっきり認められる人は幸いだ
でもたいがいはこれに気づかず、もっと表面的なものが理由だと思い込んでいる
インチャで言うなら、インチャの表層ではなくやや深層からジェラシーは埋もれている。

そして、誰々のせい、何々のせいなど、自分以外の人や物事、出来事のせいにしている。

探求する際、まず「〜のせい」はいっさいやめてみることだ。
すると、すべては自分が発端であり、自分が抱えていたということに気づくだろう。

自分がイラつくのも、腹がたつのも、悲しいのも、エゴに不随する感情や出来事などすべては、誰のせいでも何の出来事のせいでもなく、すべては自分だったということに気づくだろう。

気づかない限りは、楽にならない。
深い愛や感謝にもいたらない。

自分のエゴを外に撒き散らし、人をサンドバックかのように扱う。
自分が人に対していったい何をぶつけ、おこなっているかさえ気づかない。
自分が人に対しておこなうそのさまは、日頃の自分への扱いそのものだ

dozenについて言えば、dozenを親かのように勘違いしているものたちがいる。
dozenが何でもしてくれると、どこかで思っている。
dozenは自分に対し、いつなんどきでも対応するものだ、とさえどこかで思っているものもいる。
構われないと、すねる。
自分をみてほしい。

それが果たされないと、エゴり、エゴを撒き散らし、わたしをみて!わたしをかまって!となる。
ますますエゴを増し、どうしてわたしの思うようにしてくれないの!わたしはこんなに大変なのよ!とアピる。
dozenが自分の思うように、都合のいいように動かないと怒る。
インチャ丸出しの言動を、さぞ大人ぶったかのように振る舞う。

自分を救うのは自分なのだ。
これを忘れてはいけない。


dozenは万能なのか?
いったいどれほどの数の子供をdozenに抱えろと?
笑。

正直、これらはdozenというより、わたしに向けられる。
サンドバックにもされる。
これらは1人や2人の話ではない。
すでにパターンとしてある。

自分がdozenの中で一番でありたいと思う。
自分がdozenに重きを置かれたいと思っている。
蓮に好かれているのは、蓮に注目されているのは、みんなの中でわたしなのよ、と。
みんなの中で、集まった人たちの中で競争が始まる。
構われないと、ジェラシーが湧く。
さらにはみんなが構ってくれない(自分から溶け込もうとはしないで)と、塀を創る。
これも底辺にはジェラシーがある。
みんなは蓮さんと仲良く親しく接している、と。

またサンドバックにはわたしへの勝手な競争も含まれる。

サンドバックをdozenのクラス5の仲間に向けるものもいる。
霊的状態をその仲間たちと競うものもいる。

自分のことだけしか見えていない。
自分がどんなさまを浮きぼりにしているかも目に入らない。
エゴる理由さえ、すりかえてしまう
そして、〜のせい。

インチャの傷や過去世、スピリットがまるで自分以外の他者かのように、せいにするのはやめよう。
インチャの傷がこうだったからとか、過去世こうだったからとか、スピリットがこんなことを過去にしたからとか、・・・・・・自分じゃないまるでなにかのせいのようにしている。
インチャも過去もスピリットも、全部、自分自身じゃないか。

dozenには日々、たくさんのメールや相談メールが来る。
多いときで1日、何十通にもなる。

どうしたら?メール、教えてメール。
的を得ているメールがたくさんある中で、そうでなはいものもある。
自分で考えることもせず、すぐに答えを欲しがるというどうしたらメール、教えてメールというもの。
流れにゆだねることさえもしない
早急に答えを知りたい知りたい知りたい!
エッセンスではなく、答えを望んでいる。

自己探求の道で自分で気づいていこうと思わないのだろうか。

中にはdozenはどんなことでも知っているかのように、なんでも、どんな些細なことでも聞いてくる人もいる。
こういう人もいる。
例えで表現するなら、お腹が痛くなった、どうしたら?足をぶつけちゃって、どうしたら?
イニシエを受け、こうなったああなった、どうしたら?
起き始めたらすぐさまメールをしてくる。
愛を感じようとエゴを感じようと、それら変容が自分(の内奥)から出ていることに目を留めようとしない。
自分自身を観ようとしない。
どのようにそのさまが変わっていくか、ゆだねることもしない。

こんなこともあった。
合宿中でメールをわたしたちは見れずにいた。
その最中に(上記の類の)変容が起きたどうしたら?メールが入った。
合宿中だからもちろん入ったことを知らない。

そのメールの1時間半後には、落ち着きましたのメール。
自分の内奥に抱えているものが出てきているのだ。

合宿帰宅後、メールを発見。落ち着いたとある。ならよかった。
わたしたちはいろんな深い意味もあっての他にも優先する事柄がある。
他にもメールもたくさん来ている。

が、今度は、なぜ返事をくれないんだとメールがくる。自分はいかに大変だったかと訴える。

それほどに緊急事態と自分が思うなら、なぜそのとき直接、電話をかけてこない。
メールを打つよりよっぽど簡単に、確実にdozenと繋がりを取れるだろう。
他の事柄でかけてきたことがあるというのに。

あのとき自分にとってはSOSのつもりのメールだったと、メールしてくる。
答えを言ってるじゃないか。
つもりでしかないのだ。
だから電話ではなく、メールで事をなそうとする。

返事がないならないの具現を、なぜ自分ごとに探求しない。
自分に起きることすべては必然であり、そうなる霊的理由が必ずあり、その答えは自分が持っている。
自分自身を知る探求材料じゃないか。

もしdozenが海外にでも霊的旅に出ていたらどうするんだ?
PCや携帯が使えない場所にいたらどうするんだ?
現に今回、メールが見れない状態にいた。
(PCメールを携帯に転送することをしていない。)

dozenは、24時間対応体勢で、いつなんどきでも、どんなことでも即座に、あるいは2日以内にでも対応しなければならない存在だと思っているのだろうか?

他には、イニシエに何本の数の花を持っていけばいいかさえ、教えてと聞いてくるメールもある。
dozenは自分にとって、すべての答えをもっている知っている存在だとでも思っているのだろうか。

悲しかったとか、寂しかったとかメールしてくる人もいるが、dozenは親?恋人?
それらにすべて対応しなければならない存在なのか?
誰がその寂しさや悲しさ、辛さを創り出し、浮上させているのか。
それらあなたが創り出したものを常にdozenは、満たさなければいけないのか?

寂しい、悲しい、辛いも可愛いものなら喜んで受け入れる。
それはとても正直で、素直だからだ(霊的に言っている)。
しかし、たちの悪いエゴっぷりわがままで、まるでdozenのせいで悲しかったんだから!ごとく物言いに、可愛らしさなんて感じない。

こう思っておいてほしい。
霊的に必要だと感じたものしか返事はしない(特に蓮)。

わたしはすべて霊的流れにゆだねている。
なんでもかんでも過保護にエゴ祭りに付き合う気はない。
他力本願もほどにしよう。
コントロールも。
判断も。

自分の主は自分だろう。
dozenがあなたの主ではない
dozenがあなたを救うのか?
dozenが対応しなければ、あなたは死ぬことになるのか?魂が絶たれるのか?

わたしがこの日記を書いたのは、よほどに感じたことがあるからだと知って欲しい。
目に余るジェラシーっぷり、エゴっぷりだ。
わたしは無限の愛はこよなく愛しているが、自分を大切に扱わず犠牲になってでもの無条件の愛のスタンスは好まない。

どんな状態の人にでも、どんなときでも応対しニコニコする気はない。
どんなのメールにも必ず返事をすることもない。
これってつまりは、自分がどんな扱いをされても何でもOK!ということじゃないか。

なんでもかんでも対応しようとするのは、好かれようとするのは不安だからだろう、恐いからだろう。
よほど自分に価値をもっていないのか?
よほど自分に自信がないのか?
どんな扱いを自分がされても、ニコニコしている?
どんなメールにも事柄にも必ず対応する?

必ず対応し、常になんでも対応しようとするのは、外側、端から見れば愛が深いゆえ・・・なんて捉える人もいるが、自分がどれほど忙しくなっても対応するというのはどんな動機やインチャが隠れているかわからないものだ。
とてもじゃないが、わたしは愛だとは思わない。
これら対応を美化している人もいるが。
わたしにとってこれは愛じゃない。

この日記を読んで、自分がエゴるかどうか、それがあなたのさまだ。
ジェラシーを抱いていることさえ気づいていない。
自分に対する特別意識もほどにしよう。

以上は、dozenに必要以上に執着、依存、甘え、溺れている人たちに向けてジェラシーにフォーカスし書いたに過ぎない。

甘えていいときだってある。
頼っていいときだってある。
人は弱いときもある。
自分でどうにもならないときだってある。
みんなでタグを組むのが必要なときもある。


これらを分かっていて、今日の日記があるということは、すでにこれらの善さを逸脱している人たちがおり、その内心にはたちの悪さや、たちの悪い甘えが感じられるからである。

はっきり言うがdozenは、内心にこのようなたちの悪さが見られるとき対応は遠慮する。
自らそのたちの悪いものにエネルギーを注ぎたいとは決して思わない。
エゴは誰もが抱えている。
抱えていてもdozenは対応したいと感じるとき、対応を断ると感じるとき、その両方を持っている。

カァクのディクシャの言葉を思い出す。
エゴは誰でもあります。
エゴがあるから受けられないというのではない。
エゴがあっても受けられる。
受けれる受けれないは、エゴではなく心が開いているかどうかです。
心が開いているというのは、もっと神聖な意味です。


そして名もなきスフマーの言葉。
自分を救うのは自分だ。
posted by dozen at 13:09| 17 Lotus Life | 更新情報をチェックする
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