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2006年10月03日

真実の深さに終わりはない

自分たちの真実がレベルアップした。

1001:2006
True depth does not have an end.
photo : dozen/Ren
Free sozai↓
404b.ren.jpg


これにはお金の真実も貢献しているが、真に貢献したのは『血縁関係も罠』だという真実。
龍に起こったある体験の共有からこの真実に至っている。
その真実によって今まで知っていることがさらに繋がり深まった。
 

カレッジではほんの瞬間だけこの情報を提供している。
(よほどしっかり聞いていないと気づかなかった仲間もいるだろうと思う。)
後日、クラス5だけコミュ内にて少しだけ提供した。
 

この今在る地球に観られる状態(お金も含)、輪廻の世界など、ここのシステムは本当に隙なく上手く出来ている。
いかにこのシステムから抜けられないようにしてあるか。
いかに結局、堂々巡りになってしまうようにしてあるか。
それはもう唸るほど…。
この出来のすごさがなければ、ここまで真剣にリアルにマジで分離ゲームにはまることは出来なかっただろう。

これを誰のせいにもできない。
それはわたしたち分離ゲームに関わったすべてのものたちでこのゲームを創造してしまったのだから。
創造してしまった、創造した理由をすべてのものが各自、内在している。
でなければ創造は起きない。ここにもいられない。

これは今までにも知っていた部分がある。
だが、9月に入ってようやくさらに深い気づきに至った。
真実もスパイラルしている。
どんどん深くなっていく。上昇していく。

そしてすでに知っていた真実は浅く古くなり、エゴに変化しエゴに溶けていく。
自分がスパイラルを上昇すれば、すでに分かった愛さえエゴにへんげする。
スパイラルのどの辺りにいるかで、一段下がればエゴだと思っているものが、そこにいるものからは愛と呼ばれる。
一段上がれば、愛だと思っていたものがエゴと呼ばれる。


今回わたしたちが知った真実を理解できる人はどれぐらいいるだろう。
この真実に共鳴する人も。
わたしたちも、まさかここまでエグイ状態だとは知らなかった。
龍曰く、「知ったところでエゴるだけだろう」と。
わたしも実にそう感じている。

よほど3次元的な愛や執着・感情などを手放さないかぎり受け入れられない真実だと思う。
そう、これには愛さえ含まれる。
この愛さえ、実はエゴであり輪廻の真実に縛るツールだと知ったら…。
この世界の今ある愛のほとんどが、都合のいい愛だと知ったら。

この真実はまさに高次たちが言った、『人間のふりをするのはやめなさい』に直結してくる

血縁関係と聞いて親族だと思う人もいるだろう。
もちろん親族も入る。自分の親も入る。
しかしそこに自分の子供すら入ると聞いたら、まずは拒否るだろう。


真実が深まるたび愛が愛ではなくなる。そして無限の愛へと深まっていく。生きる世界、感じる世界観が変わってゆく

今回、それに伴い必要な実践について、そして生活や生き方改革のための実践についてまで事が及んだ。

ここに至るまで3日間、2人で悶々。
そしてハタ!と答えに気づいた。
自分たちの霊的流れがどこに向かっているかのさらに確認にもなった。

すぐに一変するわけではない。
すぐに変われるほど簡単でも安易な質でもまったくない!!
それは究極の恐れと表裏一体だからだ。
だけどこれから変わっていくだろう。
それは、真の、本当の真実を生きたいと望んでいるから。
いい加減、宇宙の輪廻さえ脱したいから。

このまやかしの世界、幻の幻想の世界はもうウンザリだ。
言葉悪いが騙されている。
そう!!
自分が自分を今まで騙してきているんだ!!
騙していることさえ自分で気づけないほどこの世界はリアルすぎる!巧みすぎる!
宇宙の輪廻を抜けたものからすれば、ここはまるである意味、死の世界も同じじゃないか。
生きているのに死んでいる。
死んでいるのに生きている。死んでいるのに肉体をもって生きている。
まるで幽玄の世界かのようじゃないか。
しかしここは幽玄の世界ではない。

高次たちはずいぶん優しくこの世界にエッセンスや情報(本など含)を降ろしている。
言葉悪く言えば生ぬるく。
エゴらないようにエゴらないように、誤解をまねくようなことや都合よく解釈されるような情報はできるかぎり降ろさず、真実のレベルや状態に合わせてそれに沿いながら降ろし、せめて少しでも愛に目が向くよう育めるように降ろしている。
まるで本当に幼い子供に話しかけるように、しかし大人の口調で大人を扱うかのようにふりをして。
バカにしている!と身の程知らずなエゴが出ないよう
実は幼い子供だと分かっているからそのように降ろす。

自分を知らないものほど、自分を認めることができないものほど、エゴるのを知っているからだ

自分たちで創ったこの創造の世界(輪廻やこのお金社会など)。
幽玄だけでなく、ここでもみんな各自、自分のこころの世界、自分のあるがまま創造した日常世界をすでに生きている。
誰もそんな現実を認めたがらない。
自分を認めたがらない。
自分が創ったこの世界で、自分が創った通りの日常を生きているなんて、認めたがらない。
さ迷う死者たちもそのように生きている。
自分がどこにいて(どんな質の状態、どんな霊的状態で)生きているのかさえ分かっていない。
認めないかぎり移行(脱すること)は起こらない。
本当の意味で認めないかぎり。

真実を知ってしまったら後戻りはもうできない
真実を知ってもなお後退しようとするのは、どれだけ自分を苦しめることになってしまうか
また自分で自分を騙すのか
それは自分(根源)を愛していない行為

自分を騙すのは難しい。自分にうそをつくことは難しい。
そのうそが明確ですぐに気づくほど分かりやすいならば!の話しだ
巧みなうそで、よほど掘り下げないかぎりうそだったと気づけないほどのうそは、そう簡単には見出せない。
そこにたくさんのドラマが絡み合い、たくさんの人が絡み合い、幾世代もの月日が重なっているものならば、うそは無かったに等しいぐらいになるだろう。



深まる真実を歩むため、新しく月が変わった今日、鞍馬に出向いた。
そこでわたしたちは2人同時に軸調整をしてもらった。


真実が深まるほど、またその真実を生きるほど傍からは非常識と呼ばれる。』

真実が深まれば深まるほど、いかに自分を大切にしていなかったかにさらに気づく
そしてそれゆえ真に自分を愛することが深められてゆく
それが傍からはわたしたち(dozen)が非常識であり利己的と映る。
わたしたちから観ても同じこと。
傍の生き様・価値観は非常識であり利己的だ
。』

『観えるエゴがさらに色濃く拡大し、その中で生きるためにはさらに真の愛を強化することが迫ってくる。』


今回、自分たちにとって気づいた真実は、自分たちが気づいてきた中でも特に深いひとつだ。
説明しようにも一言では説明できないし、この日記すら簡素で誤解をまねきかねない。
だから簡単には本当のことが書けない。
上手く表現することも難しい。
もっと文才があればいいのにと本当に思う。

わたしたちにとって人によっては相手がまるで異次元の世界の人に感じる。
話が合わない。というよりもっとひどい。話が出来ない。
こちらの口数も減ってくる。表層で話すのにもウンザリしている。(特に龍が。)
あまりに真実が違いすぎるからだ。
相手も同じことをきっと感じているだろう。
同じようにストレスだろう。

成熟が違いすぎると離婚が発生する(エゴで別れる離婚を指しているのではない)。
この霊的法則はようやく最近、スピに浸透してきている。
それとまったく同じで、身内や親子でもそれは発生するのだ。
他人ではなく血縁関係でそれが起こるとどうなるか。

血縁には、そこから掘り下げられるある罠(言葉悪いが)が仕組まれている。
血縁が濃いほどその罠も濃く作用する。
一番濃い血縁は、親子だろう。
しかも自分にとって親より実は子供かもしれない。

成熟に違いが生まれ過ぎ、片方がそれ以上の成熟を望まない限り(顕在で分かる範疇を言っているのではない)自然に関係自身は終わりを告げるようになる。
他人なら例えば離婚できる。

それが血縁で「できる」かということだ。
さぞ悪者扱いされるだろう。
過去、離婚者が悪者扱いされた以上に

ただしわたしが言わんとしている離婚の意味は『絶縁』ではない。
関係性のこと。
愛をもって見守ったり人としてサポするスタンスや交流、そういう姿勢は変わらない。
離婚したことで関係さえ絶縁する人もいるが、わたしはそうでない。

今まで2回離婚しているが、どちらとも離婚後の方が穏やかでいい関係が育まれたし、息子もどちらの元旦那とも交流は深くいい関係をどちらとも育んでいる。
離婚するだけあって、恋愛感情はもちろんない。
わたしにとって彼らは論外であり異性とすら感じない。

彼らと息子はとても自由に友情を育んでいる。
だが、わたしにとってどちらの存在も一緒に人生を歩み、愛を育む対象ではまったくない。
さらに親友や深い交友を育みたい対象でもまったくなく、過去と息子を共通項にさわやかな関係であり、何かあるときは互いの力を歓んで提供しあう関係でもある。
どちらの元旦那とも過去の関係で互いに体験したことを心から許しあい和解している。
ゆえにとても心が晴れている関係同士で、みんな個々にさわやかでいい関係となっている。

これから言わんとする血縁の離縁の意味も、絶縁ではなくこういう↑意味で言っている。
関係性を変化させることであり(それに伴う実際の距離は起こるかもしれない)、変化させるからといって愛が消えるわけでもない。
互いに愛(成熟)を育みあうならいいが、片方が愛(成熟)を育むことを頑なに拒否る場合、愛は見守る姿勢へと変化する。

高次たちがこの姿勢を取っているし、こちらの成熟が伴うならば合流だってできる。
だが、成熟に違いがありすぎるため、関係性や距離があるわけで、だからといって高次たちがこちらに愛をもって接するのをやめるわけではない。
愛をもって見守り、必要でそれが必然で、こちらが愛を受け入れる許可ができているならば、高次たちは歓んで愛を示してくれる、手をさしのべてくれる。

これから話す血縁(離婚も含)の関係性には、この高次のスタンスが土壌にある上で話している。


親を離縁する以上に犯罪者扱いされるのはきっと、自分が親で子供を離縁する場合だ。
この話の土壌はエゴではなく、成熟の違いから発生することを土壌にしているのでそこは間違えないでほしい。

親の虐待は問われるが、例えば中学生が巧みに親を虐待(精神的に)する場合もある。
これはめったにいや確実にほぼ日の目を見ない話だ。
すべて安易な親の躾や育て方、その今生の表層にしか注目が及ばないからだ。

常に子供は弱者の印象が常識としてあるからだ。
まだ幼い、だから無茶があってもまだ知らないだけだから、単にわかってないだけだから…で納める。
だがたった2歳でももういじめをする子もいる。
それがよくないことだと意思表示する2歳の子もいる。
この2歳たちの子が何を実は物語っているのか。

悪癖(エゴ)は、すでに転生前から持っており持ち越しでここに誕生している。
(もちろん育んできた愛もだが、今日の日記ではエゴの部分に焦点を合わせている。)
生をあまりにも、今回から(今の生から)と見すぎている。
今回の誕生すら一通過点であり、その魂が持っているものは今回に始まったわけではなくすでに持っているものだ
それさえも、今その子供を育てている親が、全部の責任を背負い込もうとしている
また責任にされている

そういう霊的視野からどちらにしても親も子供も、自己責任を逸脱している。
親は自己責任を超え、子供は自己責任からの逃避だ。

自分から生まれたから、自分は親だから。……。
その子供の生は今に始まったわけじゃないことに気づいていない
その子供がもつ内奥、霊性精神性などはその魂の誕生から始まっていて、今に始まったわけではない
生はすでに過去から今に渡って続いているのだ。
その一通過点に、関係し合っているにすぎない点を忘れている

前世や過去生回帰などがもてはやされる中で、こういう真実、現状に気づいている人はどれぐらいいるだろう。
こういう視点も逃さず、自分のインチャや自分の子供に接している人がどれぐらいいるだろう。

インチャに取り組んでいる人の中には、自分が親を選択し、そうなればここに生まれる以前にも自分は存在しており、自分の持ち続けているエゴ、つまり学び)や、またここでやりたい目的がありここに降りたことを、せめて頭だけでも理解しているだろう。

そしてまた親すら実は愛に飢えており、親も完全な愛ある中で育てられているのではなかったことに気づき始めている、あるいは気づいているだろう。
その親もここでの生の以前から生は存続し、癖を持ち越し生まれてきている
そういう親に育てられた自分がなぜインチャを抱えているかも分かっただろう。

もっと明確にするならば、すべての人類は必ず親か子供であり、誰もがすべてここでの生以前から存在している
その輪廻に加わる以前は、誰もがスピリット(スピリットにも幅があるが)として生きている。
そのスピリットの癖が、この世界、ここ地球では具現される。
その具現の展開を巧みに味わうために輪廻やここ地球の在りようというシステムがある。
ゆえにここで自覚している自分は、本来の自分の氷山の一角に過ぎず、本来の自分は限りなく果てしなく広大で偉大だ。

ここではその氷山の一角の具現が展開されるよう工夫されている
それが血縁も含め、あらゆるドラマだ。
ドラマがあるから感情は沸き起こり、エゴも愛も浮上さし、無限の愛が育まれる要素があるからだ。

すべては誕生する前からの選択。
そういう在りようは自分だけではないのだ。
親もそうであり、自分の子供もそうだということ。
それを自分の子供、また他の子供たちの状態でもあることをどれだけ認識できているのだろう。

親も子供もエッセンスに過ぎない。
自分にとっての100%の鏡ではないのだ。
それを履き違えてインチャに取り組んでいる探求者さえいる。
他者ももちろんだが、親や子供の癖(エゴ、学び)は自分にとってのある癖を浮上し、気づかせ愛で溶かし愛に変換するためのものであって、他者や親や子供の癖が、必ずしもまったく同じさまに100%自分にもあるとは限らないのだ。

目的は癖を浮上させ、その癖に自分が気づき、自分を知ることにある
自分を知るためなのだ。
そのためのエッセンスとして全員がここに存在している。

子供は確かに姿は幼い。
だが、それは姿だけであり、ここで生きる肉体の機能や社会的に生きるという知識が幼いだけなのだ。
表現の仕方が幼いとも言えるかもしれない。
が、その表現に実は内在される癖の本質は、肉体の大きさ(年齢)には関係ない
それ以上にある内奥や精神性、癖は、すでに自分を親として選択しここに生まれてくる前から内在しているのだ。

生まれる前からもっている本質的な癖(エゴ、学び)を、表現や環境、年齢や性別、職業や出会う人々、親や子供、パートナーなど、あらゆる設定を変え、ここでドラマをしているのだ。
そしてこのドラマはこういう視点から言えば、上辺、表層、氷山の一角の具現体験ワールドとなる。
そのワールドが、リアルにはまるようにセッティングしてある。
ゆえにエゴに肉体の状態(年齢)は関係ない。

その内在、つまりは具現に対し、ここに誕生することでシフ(名前がなくなったスフマー)がヌーンの世界と呼んだルーツカルマが付与する。
関連日記⇒http://dozen.seesaa.net/article/23604449.html
ルーツとなる親や祖先たちがここに残すエネルギーだ。
もちろん残すだけあっていいエネルギーとは言えない。
そのエネルギーも傾向がある。その傾向さえ癖とも言えるかもしれない。
ルーツのエネルギーが重なるほど色濃くなる癖、傾向。

例えば日本とアメリカでは民族性のカラーが違う。
ここ日本の自分が住んでいる都道府県内でも、地区によってそこに住む住民のカラーが違う。
簡単に表現すればこういうようなものだ。

そのルーツカルマ=ルーツエネルギーを刻印とも呼べるかもしれない。
例えばクッキーを型にはめて焼く。
その型に例えば欠けが起これば、その欠けた状態でずっと型は押され焼かれ続けることになる。
エネルギーを土壌にした、遺伝への刻印とも言える。

内在にある癖だけに留まらず、誰もがヌーンの刻印さえも関与してくる。
しかしそれは生まれる前からの了承済みだ。

今の生の背後や、引き続きもってきているすでに内在する霊性精神性。
それさえ親の責任だと問うのだろうか。

あまりに血縁というスタンスに縛られている。
誰でもすべて自分にさえ責任をもてばいい
超えても逃避しても自己の責任は放棄はできない。
自己責任の法則があるから学べるし成熟もするのだ。

血縁にこだわりすぎている。
血縁そのものが何かから脱せないようにしている仕組みのひとつだ。
血縁という仕組まれたマインド(都合のいい愛・感情含)に縛られている。
親は自己責任を超え、子供は自己責任から逃避する。
どちらも自分を大切に扱っていない
そうして関係は育まれる。
互いに自立はできない。

自立ができないということは、輪廻から出れない。
霊的成熟がなければ輪廻からは出れないのだ。
ゆえにこの自立ができない…という意味の深さに気づくだろう。

この血縁から親が子に甘え、子が親に甘え、コントロールし責任を押し付けあう。
都合のいい愛だ。

あなたはわたしの子供だから親に対してこうしてくれてもいいでしょ!
自分は子供なんだから親であるあなたはこうしてくれてもいいじゃない!
互いに自分の尻拭いをさせようとしたり、所有をしようとする。

親も子も、自分でできることさえ押し付ける。
年老いてできないことは、あなたはわたしの子供だからやってよ手伝ってよ引き継いでよ。
それが親孝行というものでしょ。と。

親は子供の意思を無視し、子供は親の意思を無視する。
好もうが好まざるが、それが本当にやりたいことであろうが、なかろうが
意思や思いを無視する。
血縁であるから…という理由で

血縁は、ここのシステムを存続させるスタイルに過ぎず、誰もが一人間であり、一スピリットだという事実を無視させる。

叶わなければ、親をみる責任は!と子供に迫り、逆に親に、子供をみる責任は!と親に迫る。
互いに脅迫し、恐喝してるのも同じことだ。
血縁を理由に暴力(精神的)の振るい三昧。

血縁が、本来の人として…ということや、霊的な生というものを曇らす

ここに誕生し存在しているのは、生の一通過点

それを、血縁が引き起こすドラマによって忘れさせる。
親であろうが子であろうが、スピリットの具現だということを忘れてはいけない。
本来、真の愛は血縁であろうとなかろうと、育まれる
その育みがまだ上手ではないから、せめて血縁というスタンスの中でまずは見出しやすいように設定されている。
血縁という仕組み、ドラマにはまって、本来の生き方を縛られコントロールされてはいけない

親も子も、霊的に言えば、互いに奉仕しているのだ。
奉仕を超え、縛ってはならない
奉仕に素直に感謝する。肉的血縁に翻弄されてはならない。
血縁を理由に、エゴってもいい理由は何ひとつない!

自分はまだ幼いから、まだ小学生だから、まだ中学生だから…。
その肉体的、社会的幼さが、エゴってもいい理由にはなにひとつならない。
霊的存在として、今、肉体がたまたま5歳かもしれない、中学生かもしれない、それだけのことに過ぎないのだ。
エゴる理由に、子供も大人も親も血縁も、なにひとつ理由にはならない

自分の子供だから、怒りにまかせてムカついたからといっていきなり叩いていい(暴力を振るってもいい)理由などない。
見知らぬ人に、怒りにまかせてムカついたから叩いていいとは、まず思わないだろう。
子供だからという理由で、一人間としての扱いを逸脱してもいい理由にはならない
また逆に、子供だからといって、大人や親にどんなふうにもエゴってもいい…、という理由にはならない

肉体の成熟の状態が、エゴる理由には何らならないのだ

所有しているとでも思っているのだろうか。
わたしたちが所有できるものなど本来、何一つないのだ。
この肉体さえも。
自分が直接活用している間だけ所有しているに過ぎない。
すべてのものは、すべてのものなのだ。
この意識さえも。

すべてはすべてシェアされている(ワンネス)。根源に。
根源はわたしたちであり、わたしたちはひとつなるもの






自分が突然、ここからいなくなっても必ずここにあるすべてはいずれ機能する。残していくのは残ったものたちへの学びという贈り物。』
死も、肉体をもってのアセンションにも通用するものだ。
もちろんこれは超簡素に言っているに過ぎず、しかし究極にも言っている。この言葉は実はとても深い。

ということは、ここにあるすべてに実はわたしたちは縛られている。
わたしたちはここへ誕生した。
誕生するということは、これら日記で言わんとする側面の見方をすればここへ、このシステムの中へいかりを降ろすのも同じことなのだ。
そしてそれを許可し望んで降りたのは、他の誰でもない自分だということ。
自分がこの世界(地球)を引き寄せた。
なぜ?
その答えはスピリットにある。

スピリットが自分にとって遠いものもいれば、この現世でスピリットとの融合にまで成熟したものもいるだろう。
自分にとってスピリットが近いものほど、以下の言葉が現実味を帯びてくる。
まだ人を救えると思っているのか!
まだ人を救おうと思っているのか!

人は、いやどのスピリットも計り知れないほど、この霊的傲慢さを抱えている
特にライトワーカーたち光の働き手。悟りを得たというものたち。
この傲慢さの深さを、とてもじゃないが顕在では決して知ることはできない。

シフと名づけた名もなきわたしのスピリット、大いなる存在と呼ばれしものは言った。
自分を救いなさい!
この言葉にも計り知れないほどの深さがある。

真実を浅く捉えるものは必ずバランスを崩す



高次のアクセス、そしてディセンション変容が始まって以来、幾度も幾度も何度も何度も高次たちから言われたのが、
シンプルにしなさい。シンプルに生きなさい。』だった。

本当の自由、真の自由に向かいたい。
わたしたちdozenはそう内から実感してやまない。
この欲求は霊的自然。
その自由へとまた1歩、そしてまた1歩と生きようとしている。
今までもそうだったように。

今回の気づき、真実を詳しく掘り下げて書く文才はないが(龍曰くこれは文才の問題ではなく文字で表現する限界にきていると言った。よって龍は今回の気づきを書けないと言った。)、新たに気づいた真実から1つはっきり言えるのは、
愛が深まり都合のいい愛を超えれば超えるほど、その深まる愛によって必ず真の自由へ近づきそれを歩み過ごし、その流れは移行に繋がっていく(アセンションや輪廻脱出)…ということだ。

やはりどこまでいっても愛(無限の愛)がものをいう。

*この日記を読んでから「お金のいらない国2」を読むと、また違う発見や理解、気づきを味わうかもしれないと思う。




著者HPにてけっこうな量の内容が読める。
(mixi内に著者がいるのでよかったら探してみて^^)

http://www2u.biglobe.ne.jp/~nagaryu/okanenoiranaikuni2.html
posted by dozen at 18:11| 17 Lotus Life | 更新情報をチェックする
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